その行動にその場にいた誰もが驚く。同時に、鬼蜘蛛の眼の黒い部分が無明を認識すると、耳を劈くような奇声を上げて牽制した。
「君をこんな風にしたのは、誰?」
横笛をくるりと器用に取り出して、口元に運ぶ。
(あれは、蟲笛だった········この妖獣を操るだけの霊力を持った誰かが、何かの目的のために村ひとつを呑み込ませた)
その音色はどこまでも穏やかで、優しいものだった。複雑な音色ではないがどこか懐かしさを感じる曲調。鬼蜘蛛は今にも襲いかかりそうだった体勢から、縮こまるように脚を躰の方へ寄せて無明の前に顔を伏せるように前屈みになると、まるでお辞儀でもしているかのような格好になった。
(蟲笛の音を中和すればきっと、この妖獣は元の知性を取り戻せるはず)
白冰と白笶は無明の行動に目を瞠った。離れていたためいつでも援護できるようにはしていたが、鬼蜘蛛の正面に自ら飛び出るなど無謀すぎる。
(彼はいったいどれだけの霊力を秘めているんだ? 妖獣を倒せるものは各一族に数人はいるだろう。だが制御できる者など、この世に何人いるか)
扇を片手に白冰は隙間から無明を覗き見る。その笛の音は見事で、この周りの凄惨な光景さえ忘れてしまいそうになる。
鬼蜘蛛が完全に殺気を無くしたかと思われたその時、無明は顔を歪めて奏でていた横笛を口元から外し、急に酷い頭痛と耳鳴りに襲われそのまま両耳を塞いだ。先ほどよりずっと耳障りで甲高い音が頭の中で鳴り響く。しかし周りにはなにも聞こえておらず、無明が急に耳を塞いで蹲ったように見えていた。
「危ないっ!!」
笛の音が止まるとほぼ同時に鬼蜘蛛が狂ったように暴れ出し、無明に向かって鋭い前脚を振り翳す。振り翳された前脚は勢いそのままに、耳を塞いで蹲っていた無明の背中に向かって振り落とされた。
「無明!!」
その瞬間大きな音と共に土煙が立ち、視界が一変する。竜虎は不安を覚えた。なぜなら鬼蜘蛛の姿だけでなく、周りにいるはずの者たちの姿さえ見えなくなってしまったからだ。
そんな中突然突風が吹き荒れたかと思えば、視界を覆っていた土煙が空へと舞い上がって、お互いの視線が交差する。竜虎は目の前に広がる光景に愕然とした。
(······無明は? 鬼蜘蛛もいない?)
白冰が宝具の大扇で起こした風は皆の視界を取り戻させたが、そこに在ったはずの鬼蜘蛛だけでなく、近くにいた無明さえも消し去ってしまったかのように見えた。
「これ、血の痕?」
代わりに残されていたのは、地面に飛び散った血痕だけだった。竜虎は青褪めた表情を浮かべ、その血痕の前に座り込む。
「早く追いかけないと!」
「落ち着いて。大丈夫、白笶も一緒のはず。この血は白笶のものだろう」
そう白冰が口にしたことにより、白笶がいないことに今更ながら気付く。無明のことに気を取られていたこともあり、視界が狭くなっていたのかもしれない。
「だったらなおさらでしょう! 自分の弟が心配じゃないんですかっ」
落ち着きはらっている白冰に対して、竜虎は立ち上がって感情的に掴みかかる。失礼だとかそんなことを考えている余裕はなかった。鬼蜘蛛が獲物を巣に連れて行くということは、餌として喰らわれることを意味する。しかも一方は負傷していて、一方は調子が悪い状態。どう考えても、のんびりはしていられない状況だろう。
「だから、私たちは冷静に見極める必要がある」
冷ややかなその眼差しに、竜虎はぞくりと背筋が寒くなった。当たり前だ。心配でないはずがない。一方的に見えたが、白冰は白笶を溺愛していた。
「おそらく妖獣を操っている者がいる。私たちには聞こえなかったが、無明には聞こえていた音。制御していたはずの鬼蜘蛛が急に暴れ出したのも、関係しているんだろうね」
口元を扇で覆い、その青い瞳を崖の方へと向ける。位置を把握でき機会を逃さずに号令をかけれる場所。村の北西にあるあの崖が最適な場所だろう。この村は都に行くために必ず通る村。狙われたのは自分たちである可能性が高い。
竜虎たちが同行することは直前に決まったことで、誰も予想していなかった。村をひとつ潰してでも手に入れたかったモノとは、いったいなんなのか。
「父上、玄武の玉は白笶が持っていたのでは?」
「狙いはやはりそれか······」
白漣宗主は嘆息する。
「無明殿を狙えば、白笶が動くと確信して、画策された可能性がある」
だが、そんなことを誰が予想するだろう。ずっと監視でもしていなければわからない事だ。それに、白笶が玉を所持していると事前に知っていなければこの計画は成り立たない。企てた者はかなり柔軟な頭の持ち主なのだろう。仮に別の者が持っていたら、違った策を取っていたはずだ。
「とにかく、先程と状況が変わった今、逆に動くのは危険だ。夜になればこの辺りも妖者共がうろつき始める。この場所は鬼蜘蛛の領域で他の者たちは近づけないはず。火を熾して朝を待とう」
もどかしい気持ちをそれぞれ抱え、夜を迎える。鬼蜘蛛が生きている限り、蜘蛛の糸に触れるのは危険なため亡骸を弔う事すらできない。磔られたままの多くの亡骸たちに祈りを捧げながら、灯った炎を前に安堵する。
「鬼蜘蛛は痕跡を残して地を進むから、捜すのは難しいことではない。それに獲物はすぐには喰らわないし、仮に操られているなら目的を果たすまでは無暗に殺したりはしないだろう」
先程までの冷たい眼はそこにはなかったが、声音は淡々としており、白冰が話しながら何を考えているのか計り知れなかった。竜虎はあれから何も言わず、ひとり心の中で考えていた。
(いったいなにが起きてるんだ? 晦冥崗のあの陣といい、あの鬼蜘蛛といい。あいつは必要以上に巻き込まれすぎだ!)
まるでなにかの始まりのように次々に降りかかって来る出来事に、頭が整理しきれないでいた。どうしてそのすべてにおいて、自分たちは関わってしまっているのか。
見えない何かに無理やり引きずられるように。
底なし沼に片足を突っ込んでいる気分だった。
✿〜読み方参照〜✿
無明《むみょう》、白笶《びゃくや》、竜虎《りゅうこ》、白冰《はくひょう》、白漣《はくれん》
玉《ぎょく》、晦冥崗《かいめいこう》
竜虎はここに赴く前、白冰に頼まれていたことがあった。「この謀は、間違いなく烏哭の仕業だろう。都合がいいと言われたらそれまでだけど、君の力が必要だ。無数の傀儡を操るには必ず陣を用いる。私が媒介の大まかな位置を、妖者たちの行動から推測して割り出す。君には合図と共に動いて欲しい」 金虎の直系の力が役に立つなら、ここにいる意味もある。「白笶と君の義弟は宝玉の方へ行ってもらっている。あちらはあちらで頑張ってもらっているけど、心配はいらない」 あのふたりの心配など無用だろう。(俺などいなくとも、あいつは、) ふと弱気な感情が芽生えて、ぶんぶんと首を振る。違う。そうじゃない。『竜虎殿、聞こえるかい?』 そんなことを考えている内に、頭の中で白冰の声が響く。慌てて竜虎は我に返り、は、はい! と大きく返事をした。『ふふ。良い返事だね。わかったよ、陣の位置が』「どこですかっ!?」 慌てないで、と白冰は落ち着いた声音で囁く。まるで耳元で囁かれているかのように聞こえるその声は、竜虎を落ち着かせるには十分だった。『雪鈴、雪陽、君たちも一緒に行って欲しい。竜虎殿をしっかり援護するんだよ、』 この辺りの妖者の気配は消えていた。絶えず上からは浄化の雨、森や平地には道を惑わす霧、地面には雪の陣が張り巡らされていて隙が無い。この陣地には別の雪家の者を寄こすそうだ。三人は白冰の言う、陣のあるだろう場所へと全力で駆け抜ける。『皮肉にも、渓谷の東側、その陣は必ずそこにある。ただ、気を付けて。陣があるということは、近くに奴らがいる可能性も高い。私もすぐに向かう』 太陽が頭を出す場所。渓谷の東側。 太陽が昇るまで、あと、半刻ほど。 碧水の地に響く、無数の妖者たちの声。まるであの村の時のように、見えない敵と戦っているようだった。**** 森の中で足止めされている妖者たちの横をすり抜けて、三人はなんとか渓谷へと辿り着いた。薄っすらと空に色が浮かび始めていたが、まだ太陽が姿を見せるまでには時間がかかりそうだ。「あの赤い陣、晦冥の地で見たのと同じ、六角形の陣!」 赤い光を帯びた広範囲の陣からは、どんどん殭屍や妖鬼が出てくる。「雪鈴、あそこ、渓谷の崖の、」 いつもは抑揚のない雪陽の声が、少しだけ緊張しているようだった。その指し示す先を雪鈴と竜虎が見上げる。渓谷の崖の少し岩が
碧水の都から人が消えた。消えた、というのは間違いで、白群の一族による迅速な対応によって避難したというのが正解である。では大勢の民たちはどこへ行ったのか。 霊山の麓、白群の一族が住まう敷地内は、碧水の地の中でどこよりも安全な場所と言えよう。霊山の神聖な霊気と、邪悪な存在を決して寄せ付けない結界。守るべきはこの地の民であり、そのために術士たちはいる。「皆、混乱は承知の上で、今から話すことをしっかりと聞いて欲しい」 それは一刻半前に、白冰が避難させた民たちの前で口にした言葉だった。民たちは誰一人として文句を言うことはなく、宗主の代わりに目の前に立つ白冰に注目する。その声はどこまでも人を安心させるような不思議な魅力があり、同時に揺らぐことのない心強さも生まれる。「数えきれないほどの妖者がこの都へ向かっている。このような事態になったのは、我々の不徳の致すところ。言い訳をする資格もない。皆に不安を与えてしまったこと、本当に申し訳なく思う」 白冰は初めに深く頭を下げた。民たちは口々に、そんなことは絶対にありえない、頭を上げてください、と騒めく。「都も、皆も、我々がなんとしても守り切る。夜明けまで、東の渓谷に太陽が昇るまでのあと約|一刻半の間、どうか信じて待っていて欲しい」 狙われているのはこの都だけで、他の地からの報告はない。つまり、敵は一族と都のみを標的としているのだ。民たちは白冰の言葉に胸を打たれ、不安がないと言えば嘘になるが、なによりも自分たちの先導者を疑うことなどあり得なかった。白冰が守り切ると言っているのだから、それ以上心強いことはない。 そしてその言葉の通り、民はひとりとして犠牲になることはなかった。**** 夜明けまであと約一刻ほど。 竜虎は雪鈴たちと共に、無限に湧いてくる妖者たちを相手に奮闘していた。妖者は殭屍と妖鬼の群れで、いずれも傀儡だった。統率のとれた妖者たちは、明らかになにかを目的として動いているようにしか見えない。 こちらも白冰の指示の下、戦いの前に皆に配られた見たことのない術式の符によって、効率的に動けている。その符は不思議なことに、頭に直接白冰の声が響き、周りにはまったく聞こえない。『怪我を負ったものは無理をせず、結界の内側へ退くこと。我々の最終目的は、妖者の群れをすべて滅することではなく、夜が明けるまで時間を稼ぐこと。
「······これが、神子の真実、」 この国の希望であり絶対的な存在。それが書物の中の神子だった。この真実を知っている者は、いったいどれだけいるのだろうか。「それじゃあ十五年も前に、邪神の封印が解かれていたってこと?」 烏哭が動き出したのはあの奉納祭の前日だったと仮定して、それまでまったく気配すら見せなかったのには何か理由があるのだろうか。 見えない何かに踊らされているような、そんな気さえする。今、ここに自分がいることさえも、もしかしたら誰かの思惑なのかもしれない。そんな風に思ってしまうのは、ただの思い過ごしだろうか。 あの日。藍歌の身に何も起きていなければ、外のセカイなど知らないまま、あの邸の中で一生を過ごしていたはずなのだ。「話はここまで。続きはまた今度」「契約の書き換えはもうじき終わるだろう。ここに訪れた時から、すでに書き換えは始まっていた」 ちょっとまって! と無明は後ろを振り向く。白銀髪の仮面の少年、始まりの神子の姿がだんだんと薄くなっていた。まだ訊きたいことがたくさんあるのに、こんな中途半端なところで終わってしまうなど、頭の中が追い付かない。「あのね、ひとつだけお願いがあるんだ」 え? と今度は前にいる自分そっくりな神子が言葉を紡ぐ。そこには悲し気な、けれども何かを決心したかのような表情が浮かんでいた。 神子をよく見てみれば、紅鏡を出る時に自分がしていた髪形によく似た髪形をしており、編み込まれている赤い髪紐もそっくりだった。「もし、君の傍に······こんな感じの、無愛想で無表情で無口なひとがいたなら」 神子は自分の顔を使って、言葉の通りにくるくると表情を変えて見せる。それはものすごくわかりやすく、無明は呆然とそれを見つめていた。「彼に永遠の輪廻を与えた時に私が口にした制約は、"自害すること"、以外はぜんぶ嘘だって教えてあげてくれるかな?」「は? え? どういう、意味?」「いつか生まれるだろう君に嫉妬して、私以外の誰かを慕うのが嫌だったなんて······ホント、私って馬鹿だよね。同じ存在なのに、」 とても愛しいものを想うような、そんな瞳で笑って神子は言う。それが誰に対してのものなのか無明はなんとなくわかってしまった。「彼の時間を縛ってしまったこと後悔してるんだ。だから伝えて欲しい。あの時の私はもういない。君は、君の守
「私たちはこれから一方的に話をすると思う。君の質問には答えられない。なぜなら私たちは、ただの記憶の欠片でしかないのだから」 無明は言葉を失う。 あの時、狼煙が少しも迷うことなく間違いないと言った意味が、今更わかってしまった。だってこんなにも自分とそっくりなのだから。「私たちの前に君がいるということは、また繰り返されてしまったということだね。すべての記憶を消去して、真っ白な神子がこの世に生まれ落ちた。つまり君は、色んな意味で始まりの神子ということになる」「今までの神子とは違い、記憶を受け継いではいないし、生まれた環境によって性格も違うかもしれない。けれどもその魂は同一。四神との契約も可能。そしてその体質も同じもの」 前後で交互に会話が行われる。どちらも同じ声だが、前の方の神子は明るく楽しげな声音で、後ろの始まりの神子の方はどこか静かで落ち着いた印象があった。「国ができる時、神は神子の身体を使って四神と黄龍を生み出した。それはのちに土地を守護する聖獣となり、その地で一番霊力の強い者にそれぞれの血を飲ませたことで、今の五大一族が各地を統べることになる。直系だけが特殊な力を持つのはその名残とも言える」「陰と陽は隣り合わせ。神はもちろん光と闇を創った。晦冥の地を統べていたのは、闇神。黒曜という名の神だった」 晦冥を統べていたということは、烏哭の宗主は人ではなく黒曜という名の神だったということだろうか。「この身体は魂を宿して生まれたその時から、特殊な体質になる。神と名の付く存在のみが善でも悪でも子を宿せる。孕ませるにはその霊気を注ぐ必要があり、女でも男でも例外はない。善神であれば神子の眷属が生まれ、邪神であれば闇の化身が生まれる」「かつて始まりの神子であった私は、彼の、黒曜の傍にいることを望んだ。故にこの身と魂をふたつに分け、もうひとつの魂が神子として永遠に転生し、この地の穢れを浄化することになったのだ」 どういうことだろう? と無明は始まりの神子の言葉に眉を寄せる。しかしその答えはすぐに神子たちから語られる。「黒曜は本来、穢れをその身に移すのが役目だった。しかしこの地は延々と穢れを生み続けた。やがて、彼の中で溜まった穢れから生み出された邪神が彼を蝕んでいき、邪神は時折彼に成り代わって私に闇の化身を生ませた。それがのちに烏哭の四天となったのだ」「黒曜
その中は真っ暗闇だった。 どれだけ歩いてもなにも変わらず、やはり自分には契約などできるわけがないのだと思ってしまう。しかしこの暗闇は不思議で、自分の姿だけははっきりと見えるのだ。だからこの空間は本物ではなく、創られたものなのだと妙に納得してしまう。「捜すにしても······どこをどう捜したらいいんだろう?」 ひとり言になるとわかっていても、不安を消すために口に出してみる。目印などあるわけもなく、とりあえず前に進んで行く。「······あれは、」 またしばらく歩き続けていた時、ある変化が訪れる。白い光を湛えた鳥が小さな翼を羽ばたかせて飛んでいく姿が目に入った。それは唐突に目の前に現れ、無明はそれを目印にして歩を速めた。 だんだんと近づいてくるその光の鳥は、無明の歩幅に合わせるようにゆっくりと羽を上下させ、少しすると顔のすぐ横を飛んでいた。そして急に目の前に飛び出て来て大きく翼を広げたかと思えば、小鳥のような大きさから孔雀のような大きな光の鳥へと姿を変えた。 無明は思わず足を止める。『さあ、私について来て』 鳥が羽ばたくと、光の羽根が数枚舞った。暗闇の中で唯一そこに存在している光は、大きな翼を広げて前へ前へと進んで行く。無明は足早にその光を追う。その光はだんだんと大きくなり、やがて真っ暗だった視界が真っ白に染まった。思わず瞼を閉じて立ち止まり、右腕を顔の前に翳してその光を遮る。 気付けば強い光は止みゆっくりと目を開けると、その先に広がっていたのはどこまでも広い空間だった。そこは青い空が果てしなく続く空間で、足元には踝くらいまでの水面が空と同じようにどこまでも広がっていた。 透明な水面に天井の空が反射して、上下に空があるのかと錯覚してしまう。幻想的な空間に、ぽつんと取り残されたかのように無明は立っていた。「ここは······、」「ここは契約の間。神子の記憶が交差する場所」 その声に、思わず振り返る。 自分とまったく同じ声。「君、は······だれ?」 そこに立っていたのは、黒い衣を纏い、無明が少し前まで付けていたような仮面で顔を覆った白銀髪の少年だった。長いその白銀髪は膝の辺りまであり、老人の白髪とは違い艶やかで美しい絹糸のようだった。「私は、始まりの神子」 仮面の奥の瞳は翡翠色をしていて、唇しかまともに見えないが、どこまでも穏や
夜が明け、日が出るまであと一刻ほどだろうか。氷楔の中はまだなんの変化もないようだ。この中で何が起きているかなど、知りようもないが、なんだか不安を覚える。(早く戻って来て······そして、あの時みたいに、笑いかけて欲しい) 無明が幼い頃、狼煙はずっと傍で見守っていた。無明が危険に晒されたり、ひとりではどうにもならないような時に、目の前に現れて直接助けていた。 その時は決まって、記憶に残らないように自分の事は頭の中から消して、けれども自分の中には、その時の出来事のすべてがしっかりと残っている。(同じ顔で、同じ瞳で、同じ言葉で、あなたはいつも俺を救ってくれる) この金眼を綺麗だと褒めてくれた。こんな、忌々しい瞳を。記憶などないのに、あのひとと同じ言葉を紡いでくれる。あのひとではない、あのひとと同じ存在。ふと、狼煙の瞳が伏せられる。どうしてもうひとりのあのひとは、ここにいないのだろう? きっと、誰よりもあのひとに逢いたいはず。(······あんたが生きていたら、良かったのに) ここにいたら、良かったのに。そうしたら、また、昔みたいに――――――。 そこまで考えて、狼煙は首を振る。そんなことは、考えても無駄だと。だって、あのひとは、目の前で死んだ。どんなに強くてもひとの身体は脆く、死んだらもうどうにもならない。ましてや、何百年も生き永らえる存在でもない。(なんでここにいるのが、よりにもよって、あの公子殿なんだ?) 無明の傍からほとんど離れず、必要以上に手を貸すその様子を、何度となく目にしてきた。その笑顔を、すべての表情を向けられても、ほとんど無反応なのが、特に気に入らない。 まるで。(あれ······? 俺、今、なんて言おうとした?) 神子の傍にいて、神子の言葉に頷くだけか、もしくはひと言ふた言しか返さない、つまらない男の姿がふと浮かんだ。 まるで、あのひと、のようだ。 狼煙は今更ながら、あの公子が無明を助けたあの日からの記憶を、辿る。あの時も、あの時も、あの時も。彼は、無明になんと言っていたか。なぜそうだと伝えないのか。伝えたところで本人に記憶がないから、といえば頷けなくもない。 じゃあどうして自分には教えてくれなかったのか。今の姿で最初に会ったのは三年くらい前だった。ひとりであの渓谷に現れ、彼は自分に向かってなんと言ったか。「私